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芋焼酎の産地として知られる宮崎・都城で、麦焼酎蔵に転向しながらも120年を超える歴史を紡いできた焼酎蔵がある。その伝統を決して絶やしてはならないと、挑戦と努力を続ける5代目当主、柳田正。愚直なほどひたすら醸造に向き合い、麦を育て、父があきらめた芋焼酎に再び取り組む彼の姿が、奥深く真っ直ぐな焼酎の味わいを生み出している。

芋焼酎の本場であえて麦焼酎蔵に転向した
老舗酒造4代目の決断と努力

豊かな自然と温暖な気候に恵まれた宮崎県都城市。霧島山と鰐塚山系に挟まれた都城盆地は、高温多湿で発酵に適した土地柄であり、霧島山系や滝部から湧き出る清涼な天然水が潤沢に湧き出ることから、古くより焼酎造りがさかんに行われてきた。最盛期には14、5もの蔵がしのぎを削っていたというが、時の流れとともにその数が減じ、現在では4つの蔵が焼酎造りを続けている。中でも最も古い歴史を持つのが、1902(明治35)年創業の「柳田酒造」だ。


都城の焼酎といえば芋焼酎だ。柳田酒造も創業当時から芋焼酎「千本桜」を製造していたが、4代目の柳田勲氏の頃になると価格競争が激化。勲氏は歴史ある蔵の生き残りを期し、芋焼酎造りを停止して麦焼酎蔵に転向するという苦渋の決断を下す。以来、麦焼酎「駒」を懸命に造り続けてきた。


その蔵を受け継いだのが勲氏の次男、正氏だ。5代目として正氏が夢に描いたのは、柳田酒造の看板であった「千本桜」の復活だった。

「芋焼酎を断念した父の胸の内を思うと、その復活こそが私の使命だと強く思ったのです。しかし、ある地元の酒屋さんとの出会いが、私にそれをさせなかった。その方はこう言って叱ってくださったんです。『君が大きくなれたのも、蔵に帰ってきて焼酎造りができるのも、お父さんが必死で麦焼酎を造り続けてくれたからだ。芋焼酎を復活させたい気持ちは分からなくもないけれど、まずはこの麦焼酎をお父さんからしっかり受け継いで、自分の力でお父さんと同じような焼酎を造れるようになることだ。そこから次のステップに進まなければ駄目だ』。その言葉がなければ今の柳井正はないと言ってもいいほどの衝撃でした」


そこから10年間、正氏は麦焼酎を一心に造り続け、自分の足元を固めていった。


幼い頃から体で覚えた焼酎造りとエンジニアの経験。
その二つを活かして新たに生み出した「赤鹿毛」「青鹿毛」。

そもそも正氏は蔵人として修業を積んでいたわけではない。幼い頃から家業を手伝ってはいたものの、蔵は6歳上の兄が継ぐものという考えから、子供の頃から憧れていたエンジニアの道に進んだ。ところが30才を目前にする頃、勲氏が病に倒れてしまう。当時兄はすでに企業の研究所で責任のあるポストに就いていたため、代わって自分が蔵を継ごうと決意。都城に戻り、慣れない焼酎造りに専念する。

「普通は農大などで醸造などを学んでから蔵に戻る後継者が多いんです。私にそういった学術的なバックグラウンドはないのですが、子どもの頃に嫌々手伝っていた蔵の仕事が、いざ焼酎造りを始めると、『あっ、この作業はこういう役割を果たすんだ』と全部の点と点がつながって線になったんですね。それぐらい体に染み込んだものがあった。だから、全く異業種に就いたという感覚はなくて、子どもの頃の延長線上に今の自分が立ったという感じでした」

そうした原体験に加え、エンジニアとして培ってきた知識と技術を活かし、もろみの沸点や蒸留機の仕組みなどを徹底的に研究。改良に改良を重ね、試行錯誤を繰り返しながら、やがて、「赤鹿毛」「青鹿毛」という大麦焼酎を生み出す。


「私はせっかちな性格で、突拍子もないアイデアを思いつくと、その場で実行に移さずにはいられません。造りの最中であっても同じで、その日の蒸留が終わると蒸留機を分解し、改造を始めてしまうことも何度もありました。本来ならシーズンが終わってからじっくり蒸留機を全部バラして改造した方が効率的なのですが、結果が知りたくて待てないのです。苦労話のようでいて、振り返れば夢中になって楽しんでいた思い出です」


今や定番の通年商品として人気を誇る「赤鹿毛」は、口に含むとポップコーンや麦チョコのような麦本来の香りとほんのりとした甘味が広がり、口当たりも柔らかな新感覚の麦焼酎だ。一方の「青鹿毛」は年に2回のみ出荷される限定品。独自の蒸留方法でもろみに熱を加え、トーストのような芳ばしさと綿あめにも似た甘い焦げ風味がファンを魅きつける。


「麦は熱によって非常に表現が豊かになるんです。飲み方としてもおすすめはお湯割りですね。1対1ぐらいの割合で、まず器に熱湯を注ぎ、そこにゆっくりと焼酎を注ぎます。その後はグラスをかき混ぜず、少し冷まして湯気が落ち着いてから飲んでいただくと、アルコールの刺激が穏やかになって麦の甘さと香ばしさがより際立ち、長い余韻を楽しんでいただけると思います」


35年の時を経てついに復活させた芋焼酎。
それは5代目から6代目へと歴史をつなぐ大切なバトン

蔵を継いで10年。40才を前に正氏は、いよいよ本格的に芋焼酎造りに挑むことを決意する。しかし、勲氏は強く反対した。「お前は自分の子どもが滝壺に向かって歩いていくのを見過ごすことができるか」。

「病身の父がそう言うのを聞いて、もう何も言い返せませんでしたね。私の娘は桜子という名前なんですが、あぁ、自分はもうこんな年なのに、父にとってはまだ桜子のように見えているんだな、と。そう感じる一方、でも、ここで折れては絶対にダメだとも強く思いました。父が生きている間にやりとげなければ、墓石にいくら叫んでも答えは返ってきませんから」

ひたすら粘り強く説得する息子の姿に、最終的には勲氏もうなづいてくれた。それから1カ月、勲氏は療養のために通っていたケアサービスも休み、正氏と親子二人でひたすら焼酎造りに打ち込んでくれたという。「もしかすると父は、生半可な気持ちでは芋焼酎を復活させることはできないぞと、私を試していたのかもしれません」。今になってそう思うと正氏は話す。35年ぶりに再び芋焼酎「千本桜」を復活させることができたのは、2013(平成25)年のことだった。

「その年が、父が現場に入れた最後の年となりました。本当に首の皮1枚のギリギリでしたが、なんとか父から教わったものを今に生かすことができています。伝統というものは本当に財産ですし、だからこそ失ってはいけない。この財産を、次の世代にしっかりと伝えて残していくことが、私の最後の宿題だと思っています」

どんなに苦労をしてもこの蔵を守り、次世代へと引き継ぎたい。正氏のその強い信念は、ひとたび業務を廃止してしまうと二度と酒造の権利を取得できないというルールが焼酎にはあるからだ。柳田酒造の長い歴史を途絶えさせることなく、今の時代なりの創造を加えて進化させ、次の代に渡す。そのためにも、新たな「千本桜」を自分の手で生み出したかったと正氏は言う。6代目として期待されるのは、正氏の一人娘、桜子さん。「この子に“お父さんの仕事を継ぎたい”と思ってもらうには、自分の焼酎の魅力で口説くしかない」と正氏は笑顔を見せた。


宮崎の在来種「ミヤザキハダカ麦」の復活に挑戦。
たすらな努力で、都城の焼酎文化と家業の蔵を次世代へ引き継ぐ

5代目の挑戦は芋焼酎の復活にとどまらない。さらに美味なる麦焼酎を追い求め、正氏は主原料である麦の栽培を計画する。「ミヤザキハダカ麦」だ。


実は宮崎では戦前から戦後にかけて広く麦が栽培されていたのだが、時代と共に栽培面積も農家も減少し、現在ではほとんど地元産の麦はないという。

ぜひこの宮崎ならではの品種を復活させ、その麦で焼酎を造りたい。2007(平成19)年、探しに探して正氏は「ミヤザキハダカ麦」の種を入手。製茶園の力を借りて栽培に成功し、宮崎県との共同研究で試験醸造を行ったところ、個性豊かで芳醇な香りの焼酎ができたという。その後は本格的な栽培が進められ、ついに「ミヤザキハダカ麦」で仕込んだ麦焼酎「ミヤザキハダカ駒」を世に出すことができた。まだまだ生産量は限定的だが、正氏は決してあきらめない。


「焼酎の原料となる麦や芋、米は、農家の方々が毎年同じように愛情を込めて育てても、その年の気象条件によって状態が変わりますし、同じ年でも畑が違えば出来栄えも変わります。また、長年焼酎を造ってきましたが、これまで一度として同じ『もろみ』に出会ったことはありません。もろみには目に見えない微生物が深く関わり、休むことなく働き続けています。そして彼らの働き方も、その日の気温や気圧などの環境によって微妙に変化していきます。その結果、焼酎の仕上がりも毎回変わってくるのです。毎日が新しい発見の連続です。こんな最高のものづくりは、多分他にないんじゃないかと思うぐらいです」

すべての努力は、故郷都城の焼酎文化を守り、柳田酒造という蔵を次世代へと引き継ぐため。「楽しそうに飲んで、楽しそうに酔っているお客様の姿を見るのが何より嬉しい。日々飲んでくださっている愛飲家の方々をがっかりさせないよう、常に神経を研ぎ澄ませながら造りに向き合っています」。“ひたすら”という言葉が誰より似合う柳田正の挑戦は、これからも続いていく。