Index
地球の大自然が生んだ水晶などの貴石を入念に研磨し、彫刻を施すことで生み出す伝統工芸品、水晶貴石細工。山梨で発達したこの技を代々高め、水晶工芸の世界を牽引してきたのが土屋華章製作所だ。無色透明の神秘の石に情熱を傾け続ける七代目、土屋隆さんが思う水晶工芸の未来とは。
門外不出の技を神官から受け継いで200余年。
七代にわたり継承と挑戦を重ねてきた水晶細工の歴史。
山梨県甲府市の北部に位置する風光明媚な渓谷、昇仙峡。今から約1,100年前、この地域一体から良質な水晶が採掘されたことから、「甲州水晶貴石細工」の歴史が始まった。甲州水晶貴石細工は、水晶をはじめとする貴石に彫刻を施し、入念に研磨することでさまざまな作品を作り出す伝統技法。その加工技術を代々継承し発展させてきたのが、土屋華章製作所である。
土屋華章製作所の創業は1821(文政4)年。当時、水晶の加工技術は昇仙峡の金桜神社に仕える宮司だけに許されたものだった。しかし、後に土屋華章の初代となる宗助がその技術に心を動かされ、足繁く通って門外不出の加工技術を会得。土屋華章製作所の前身となる「玉潤堂」を創業したのだという。
「江戸後期には水晶製の玉や根付などを売り出し、甲州土産として評判を呼んだといいます。初代が学んできた技術を用い、二代目は精緻な水晶レンズを研磨してメガネを作り始めました。また、三代目は水晶印鑑の研磨篆刻名人として名を馳せ、大隈重信や伊藤博文など要人からの注文も絶えなかったようです」
そう語るのは、現在七代目として土屋華章製作所を率いる土屋隆さんだ。
「幕末期の1867(慶応3)年に開催されたパリ万国博覧会には水晶を研磨した玉(ぎょく)などの作品を出品しています。これを契機に研磨やカッティングの技術が一気に進化します。明治後期に入ると動力化が進み、四代目華章がモーターで動く研磨加工用動力機械を開発すると、作業効率を大幅に上げることに成功しました。動力を用いることで研磨やカッティングの技術が一気に進化したのです」
これが大きなイノベーションとなって山梨の水晶細工の産業化が進み、欧米への輸出もさかんになった。以来現在に至るまで、土屋華章製作所はその時代その時代が求めているものを模索しながら新たな挑戦を重ね、工房の歴史と甲府の水晶加工技術を守り続けてきた。
世に二つとない原石のどこを使い、何をどう形作るか。
ジャズのようなアドリブ感で一人の手が生むアート。
水晶細工は、機械や道具で同じものをいくつも作るということができない。全て職人一人一人の手の動きのみで研磨し、彫刻をしていくため、同じような形であっても一つたりとも同じものはないのだ。
「もちろん、石自体も天然のものなので同じ石は一つとしてありません。その原石のどの部分をどう使い、どう形作るかをその都度その都度考え、手を動かしていく。ジャズでいうなら、主旋律自体は決まっていても、実際にはプレーヤーが自分の頭の中で描いたフレーズをアドリブで演奏していくようなものでしょうか。そういったジャズ的要素が水晶細工にはあります」
だからこそ、作り手の性格や技術がそのまま集約された唯一無二の作品となり、石という無機質で冷たいものに血の通った温かみが生まれる。それこそが水晶細工のいちばんの魅力だと土屋さんは語る。
「とはいえ、結局は自分の手次第でいかようにも変わる感覚的な技術ですので、研究と研鑽を重ねる以外身につける術がなく、しっかりとした作品が作れるようになるには20年30年と時間がかかります。しかも、水晶は何しろ硬度が高いので、すぐに結果が出ない。2、3日削り続けてほんの一部分だけの形がやっと出てきたりするので、好きでなければできないし、本当に心の強い人間でなければ続けられません」
気の遠くなるような時間をかけ、ひと削りひと削りに魂をこめて作り手の世界観を描き出す水晶細工。そこには、単なる工芸品にとどまらない、アートとしての価値が宿っている。
一子相伝ではなく、職人を育て、巣立たせる。
そこから新たな技や作風が生まれ、未来へつながる。
7代にわたり日本の水晶貴石細工を牽引してきた土屋華章製作所だが、常に一子相伝でその技術を受け継いできたわけではない。むしろその逆だ。親方と弟子という徒弟制度に執着せず、しっかり技術を教えたうえで独立させる。そうして時には協力し合い、時には発注もしながら、それぞれの生業を成立させていくことで共存共栄の道が開けるのだと土屋さんは言う。
「もう一つは技術の発展です。一子相伝だとどうしても閉鎖的になり、新たな技術が生まれにくくなる。けれど、水晶細工は全て人の手を動かして作り上げるものなので、作り手の個性が技となり、作品に表れていくんです。だから、それぞれが切磋琢磨して新しい技術やアイデアを生み出していくことで、互いへの刺激となり、ひいては水晶工芸全体の進化や活性化につながっていくのだと思います」
過去を振り返ると、五代目亀之助は山梨県水晶美術彫刻組合の編成や山梨県立宝石美術専門学校の前身となる山梨県宝石彫刻技術養成所設立のために奔走し、研磨技術の恒久的な継承や発展に尽力した。より多くの職人が共存することで、伝統をすたれさせてしまうことなく、技術を高めることができる。甲府の水晶細工の歴史が絶えることなく現在まで続いているのは、そうした土屋華章の考え方が正しかったことの証左と言えるだろう。
「一方、山梨ではすでに古墳時代に水晶の勾玉を作る技術があったという史実が残されています。そこから脈々と受け継がれてきた技術を、たまたま私どもが学び、継承した。そう考えると、日本で現存する最も古い水晶の加工場である土屋華章が、ルーツの一つとして技術を代々継承していくことは、自分たち職人にとっても山梨にとっても意味があるんじゃないかと思っいます」
時代ごとの“今”が重なって生まれた伝統美を100年、1000年と恒久的に残す喜び。
土屋さんは現在、これまでの水晶細工になかった冷酒器のような新しい作品も手がけている。伝統工芸とは、“伝統”といえども“今”の工芸なのだと語る土屋さん。
「技術だけを残そうとしても続くものではなく、その時代その時代が求めるものに挑戦し作り出していくことが、伝統工芸の本当の姿であり、難しさでも肝でもあると思います。そこから目をそらさずに挑んでいかないと、伝統工芸はどんどん衰退するだろうし、やりたいという人も出てこないでしょう。水晶細工の未来は、全て自分たちに責任があります」
そう話す土屋さんの言葉は、力強く、潔い。一方、ほんの数センチを削るだけでも数日かかるほど硬い水晶は、逆にいえばいつまでも形を変えず残すことができるという魅力を持つ。
「今では私より若い世代の職人がしっかり育って、芸術的に優れた彫刻作品を作っている者が何人もいます。貴石彫刻とは、作り手ができうる最高の技術を集結させたアートなんですよね。そんな彼らの作品が、発掘された古墳時代の勾玉のように、もしかすると100年、1000年と恒久的に残っていくかもしれない。そう考えることが、職人のモチベーションの源泉でもあり、喜びでもあります」
太古の昔から悠久の時を経て生み出された水晶を、職人が技術の極みを尽くし、気の遠くなるほどの時間をかけて磨き、彫り上げる水晶貴石細工。そんな無限の時に思いを馳せつつ、土屋華章製作所の水晶細工が放つ神秘の美しさを堪能したい。