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山形の小さな町で、戦前、働き口のない女性たちのために未知のじゅうたん製造に挑んだ作り手たちがいた。以来、さまざまな苦難を乗り越えながら90年もの歴史を重ね、今や世界に名だたるじゅうたん工房となった「オリエンタルカーペット」。彼らの真摯なものづくりを象徴する「山形緞通」は、美しさとしなやかさ、そして世代を超えて受け継ぐことのできる耐久性を持ち、踏みしめるごとに喜びと誇りを感じる足元のぜいたくを味わわせてくれる。
確かなビジョナリーと奇跡の出会いが
芸術家も認める類稀なじゅうたん工房を生んだ
1968(昭和43)年に造営された皇居新宮殿、そうそうたる国賓を迎える京都迎賓館、旅好きが「いつかは」と夢見るJR東日本の豪華寝台列車「四季島」---−。全く無関係に思われるこうしたさまざまな施設が、共通して備えている調度品がある。オリエンタルカーペットが手掛けた最高級じゅうたん、「山形緞通」だ。

世界に名だたるじゅうたんブランドとして歴史を誇るオリエンタルカーペットのルーツは、1935(昭和10)年、山形県山辺町で創業された「ニッポン絨毯製造所」にある。当時山辺町は冷害凶作による大不況に襲われていた。疲弊を極める地域経済を再生し、働き口の少ない若い女性たちが安心して働けるような産業を起こせないものか。そう切に願ったのが、山辺で木綿織業を営んでいた渡辺順之助である。
「今でこそ地域のための雇用創出、産業創出ということに取り組む企業が少なくありませんが、戦中期の1930年代半ばに、しかも辺境とも言える山辺町でそういった理念を掲げて事業を立ち上げようとした順之助の胆力とビジョナリーには、目を見張るものがあると思います」


そう語るのは、順之助の玄孫であり、現在オリエンタル・カーペットでプロデューサーを務める渡邊貴志氏。順之助のそのビジョンは、やがて中国の高級絨緞「緞通」を山辺で製造するという壮大な計画へと像を結んでいくが、そのきっかけには絨緞商・佐野直吉との出会いがあった。
「佐野は当時の満州で総合商社を経営しており、中国緞通を現地の日本の富裕層に販売していたのですが、将来的に日本で緞通を作りたいと考えていた。木綿織の技術を活かして地域の産業を創出したい社会起業家気質の順之助と、商売にたけた傑物であり中国緞通と当時のマーケットに精通している佐野。この二人が、共通の知人を介して出会い、『ニッポン絨毯製造所』を創業することになるのです」

二人は山辺に7人の中国人を招き、2年以上に及ぶ伝習を経て国内初となる羊毛を原料とした中国緞通の技術導入を成功させる。言葉もまるで通じない中国人指導者から町の女性たちへと技術を伝授させるのは、並大抵の苦労ではなかっただろう。その後は社名を「東北振興ニッポン絨毯製造所」へと変更。生産体制の拡充を図るとともに、日本のものづくりとモダン・デザインを融合させた日本ならではの緞通を手がけていく。



【写真・中】愛犬(図案:藤田嗣治、1935年)
【写真・下】豹紋様(図案:梅原龍三郎、1935年)
創業年から東京の高島屋で展覧会を開き、藤田嗣治、鏑木清方、朝倉文夫、梅原龍三郎、ノエミ・レーモンドといった著名な芸術家たちとのコラボレーションを実現させている。また、1940年に民藝運動と縁の深いシャルロット・ペリアンが工房を訪れたことをきっかけに、ペリアンのデザインによる緞通を製作し、翌年1941年に高島屋の展覧会『選擇・傳統・創造』で発表する機会に恵まれました」 1930年代半ばの山形で創業した小さな会社がこうして創業初期より華やかなデビューが叶ったのは、順之助と佐野が出会ったという奇跡があったからこそと思われる。
知恵と工夫、そして技術で戦後の困難を乗り越え、
世界へと羽ばたいた「Fuji Imperial Rug」
創業以来、日本でも他に類を見ないじゅうたん工房として高い評価を得ていた順之助たちだったが、第二次世界大戦の状況悪化によりじゅうたん製造は中断を余儀なくされる。ようやく事業を再開できたのは終戦後。とはいえ、言うまでもなく物資は困窮し、いかに原料を探そうと羊毛どころか綿屑すら手に入らない。しかし、順之助と職人たちは諦めなかった。
彼らが着目したのは、山辺町の山に多く自生している葛の木。この木の繊維は加工次第で糸にできるのではないかと考え、試行錯誤の末、葛の根をつぶして糸状にした素材を発明したのだ。順之助たちはこれを『アニプラントヤーン』と名付け、原材料として手織緞通を製作。新しいじゅうたんを求めていたGHQのマッカーサー司令室に納入する。

「それを目にしたGHQの人々は、『この物資のない中、日本人は木の根っこでじゅうたんを作れるのか』と非常に感嘆してくださったそうです。また、軍服をほどいて糸にした手織緞通を、当時GHQに接収されていた帝国ホテルに200枚以上納入。こうした実績が高く評価され、商工省、現在でいう通産省から特別に輸入羊毛を割り当てられるようになりました」


【写真・下】米国からのバイヤー視察風景
じゅうたんづくりに注ぐ情熱、知恵と工夫、そして高い技術力が切り拓いた新たな道。順之助は新社名「オリエンタルカーペット」を掲げ、いっそう事業に邁進する。次なる目標は、海外進出。日本国内ではまだまだ戦後の混乱が続くなか、日本のプライドをかけるかのごとく、デザインから染色、織り、仕上げと全ての面で技術とクオリティの向上に取り組む。



【写真・中】ニューヨーク五番街B・オルトマン百貨店展示場での展示風景
【写真・下】バチカン宮殿法皇謁見の間に手織緞通を製作納入(1964年)
そして終戦後からわずか3年の1948(昭和23)年、海外輸出第1号となる緞通をハワイへ出荷。これを機にオリエンタルカーペットは海外でも広く知られるようになり、特にアメリカ市場では「Fuji Imperial Rug」の商標名とともに最高級のじゅうたんとして認知されるようになる。最盛期には輸出量が生産量の80%を占めるまでになり、のちの1964(昭和39)年には、なんとバチカン宮殿法皇謁見の間に手織緞通を製作納入。オリエンタルカーペットのものづくりがいかに世界に認められているかを象徴するエピソードとなった。
つくる姿が美しければ、生まれてくるものも美しい。
高品質を生み出す緻密なハンドタフテッド製法
高度成長期とともに順調に事業を拡大し、国内外の需要に応えてきたオリエンタルカーペットだが、その歴史の中でも独自に発展を遂げた製品がある。1965(昭和40)年より導入されたハンドタフテッド製法を用いる「手刺緞通」だ。
じゅうたんの製法には「手織」と「手刺」がある。手織はじゅうたんづくりの原点ともいえる製法で、方眼紙のように細かな原寸大の製作図面に合わせて職人が縦糸に毛糸を結んではカットし、これを繰り返しながら1段ずつ織り上げ、専用の道具で織目の密度を一定に整えていく。繊細で高度な手仕事で、職人が1日数千回作業を繰り返しても、織り上がる長さは数センチ程度だという。



一方の手刺とは、原寸大の製作図面を基布に転写し、フックガンという専用工具で羊毛を打ち込みながら刺繍のようにじゅうたんを織っていく製法をいう。1歩ずつ正確に移動しながら、常に一定の力で高密度に羊毛を打ち込んでいくタフティングは、修練による高い技術を要する。壁にかけられた基布に向かってまっすぐ立ち、工具と一体になって狂いなく羊毛を打ち込んでいく職人たち。手織・手刺のものづくりを通じて、『つくる姿が美しければ、生まれてくるものも美しい』とは、オリエンタルカーペットで語り継がれる言葉だ。


「この製法によって製作コストと時間の短縮を図るとともに、多種多様なオーダーに応えることが可能になりました。また、手刺緞通の場合は裏地に接着剤を使う必要があるのですが、一般的には何年も経つと接着剤の剥離など耐久年数の問題が生じます。弊社にとっては『手織緞通』と同等の品質を持つものが『手刺緞通』ですので、剥離や耐久性の問題が生じることは許されません。長い時間をかけながらこれらの課題を解決し、何十年も長くご愛用いただける一枚をお届けできるよう、独自の技術を開発しました。工房では販売後の製品のメンテナンスやクリーニングもお引き受けしていて、古いものでは70年前の手織緞通、50年前の手刺緞通が戻ってくることもありますが、それらが今も現役のじゅうたんとしてお客様にご愛用いただいている姿を見るのは嬉しいです」


工芸品としての極みにある手織緞通はもちろんのこと、緻密なタフティング技術と数十年後まで見通すていねいな仕上げによって生み出される手刺緞通は、高密度でしっとりとした風合いを持ち、手織緞通に準ずる品質を持つ一枚となる。オリエンタルカーペットではこの手刺緞通を、手工芸を意味する「craft」を用いて「クラフトン」という造語で呼ぶ。そこには、品質への誇りと職人に対するリスペクトが込められている。
「品質こそ、デザインなり」の精神が支えるものづくり。
年を経るごとに風合いが増す、最上級の一枚と暮らす
原材料となる羊毛選びから糸づくり、染色、織り、仕上げまで、じゅうたんの全製作工程を自社内で一貫管理し、さらにはメンテナンスやクリーニングまで行う日本唯一のじゅうたん工房、オリエンタルカーペット。「山形緞通」は、そんなオリエンタルカーペットのものづくりを象徴するじゅうたんブランドだ。最大の特徴は、極めて高い品質と耐用性にある。特に手織りの緞通は百年使い続けることができると言われるほどの強さを持ち、年月が経つにつれて風合いと肌触りがさらに艶やかに増してゆくという。

「ホテルのように靴で踏むのか、日本のご家庭で素足になって踏むのか、お使いいただくシーンに合わせて仕上がりの感触も変えています。お客様のご要望に応えたじゅうたんを何十年、時には百年もの時を超えてご愛用いただき、我々のものづくりを日常的に感じながら、使う喜びや誇りを長く実感していただく。そして、暮らしの記憶とともに、その誇りを引き継いでいっていただく。そんな一枚のじゅうたんを生み出していくことが、我々山形の作り手たちの役割だと思っています」

【写真上段 右】京都迎賓館 (2004年)
【写真中段 左】歌舞伎座 (2012年)
【写真中段 右】汗牛荘 (1991年)
【写真下段 左】新大阪ステーションホテル classico (2024年)
【写真下段 右】湘南茅ヶ崎の家 (2025年)
渡邊氏はそう語る。山辺町の工房には年間1,000人を超える訪問客がオリエンタルカーペットのものづくりに触れ、思わず頬をすり寄せたくなるほどの肌触りと美しさに息を呑む。「品質こそ、デザインなり」。創業以来変わらないこの精神のもとで生まれた最上級のじゅうたんを永く足もとに置いて暮らす幸せ、それを与えてくれるのが、「山形緞通」なのだ。